昨日の日記

昨日は一日寝ていた。薬の副作用が強く出ていたので何もする気が起きなかった。今日は起床時に調子がよかったのもあり服用していない。今日も昼近くまで寝ていたので一日半くらい寝ていたのだと思う。それだけ眠ると、今度はじっと寝転がっていることができなくなってくる。今日なにをどれくらいできるかはわからないが、動けるときに少しでも動いておかないといけない気がしてしまう。こう考えることが、多分回復を妨げている。

 

 小説を読むと、情緒の針が振り切れる。感情移入の度が過ぎているんだろうか。『凍りのくじら』を数年ぶりに読んでいる。私は理帆子と同じだと思ったあの頃から私は何か変わったんだろうか。変われたのだろうか。最初に読んだのがいつかも覚えていないけど。

 藤子・F・不二雄先生は、自分にとってのSFは「すこし・ふしぎ」だと言った。らしい。それを引き、主人公は人の個性を「すこし・なんとか」に落とし込む。そんな理帆子は、「すこし・不在」。理帆子と同じでなくともかなり近いと自分のことを見ている私も「すこし・不在」だと思うが、同じというのもなんかつまらないと思い、自分だったらそれが何になるのかたまにぼんやり考える。

 少し前から思っているのは、「すこし・不確か」。どうだろう。あてはまっているだろうか。人は他者との関わりによって輪郭を得る(もちろん、中身も)。自分ひとりでは生きていけない、他者がいることで自分ができる。これらは多くの先人たちが示してきたことだろう。いまの私は、ほとんどを寝て過ごし、人との関わりも薄い(かろうじてSNSでつながっている)。ひとりで布団でぼんやりしていると、世界との境目があいまいになっていく感じがする。私の線が溶けていく。そんなとき、このまま溶けていくのも悪くないと思う。寂しさを超える瞬間。他者に認識されず、自分でも意識がぼんやりしてくる、あいまいな私。だから、すこし不確か。

どんな小説でも、読み終わると心に穴があく。終わってしまったという喪失感。取り残されてしまったという感情。それらの吐き出し方を私はまだ知らない。小説は終わらせることができるが、私たちは生を終わらせられない。自分で自分の生を終わらせることができるのは、一部の才能のあるひとだけだ。私はどうやって自分の生に幕を降ろしたいのだろうか。それはどうやったらかなえられるのだろうか。

 

 戸籍抄本が無事届いたので、明日はパスポートの申請に行く。はじめての海外は韓国の予定。やっともっと遠いどこかへ行けることがうれしいし、不安でもある。だからこそ早く行ってみたい、外をそこまでこわがる必要がないことを身をもって知りたい。