穏やかな日々が続いている。

朝そこそこの時間に起きて、朝ごはんもちゃんと食べて、窓を開けてぼんやりしたり本を読んだり。

こんなにゆったりとした朝をこれまで過ごしたことがなくて、これまで選択してきたことへの後悔とかが消えた。

この間、すきなひとに振られた。

だけどそれは拒否ではなくて、ふれられるし、すきっていうと笑ってくれるから、愛情を、すきを、相手にわたし続けようと思った。ただ、圧にならないように。安心してもらえるように。

相変わらず先は見えないし金銭的にカツカツだけども、なりたい私に、ふわりとしてゆるやかだけどちゃんと芯の通った人間、を目指していこうと思う。

9月7日の日記

暑いよりも寒い方が好きだ。

暑さは自分の輪郭が溶ける気がするけれども、寒さは輪郭がはっきりする気がする。

涼しいから部屋よりも外にいたくて、川辺で眠ったりバイト終わりにコンビニの前でぼうっとしたりしている。夜の散歩にもいい季節。

昨日の夜、精神的な落ち込みの波がやってきて、泣きながらしたくなるままに言葉を吐かせていたら、ふと私がなりたかったものに気づいた。というか、思い出した。

私はひとを助けられるようになりたかったんだった。助ける、というのもおこがましい気がするけど。

するりと手をさしだせる人間になりたい。

それなのに、誰にもなにもできなかったし、すきなひとや大事なひとに助けてもらうばかりで、むしろ疲弊させてしまうばかりだった。

自分にとって大事なことのはずなのにすぐ忘れてしまうのは、実は大事に思っていないからなのかな。どうして忘れてしまってたんだろう。

つよくなりたいと思う一方で弱いままでいたい甘えていたいと思うし、ひとりでいたいと思う一方で、アルバイトや就くことを考えている仕事はモロに対ひとの仕事ばかりだ。

これらは両立不可能ではないのだろうけど、バランスがまったくとれない。

結局、どうしてもひとを求めてしまう。寂しくて仕方がない。

恋人が目の前で亡くなった友人がいる。

彼女の話をきいているとき、自分の無力さを思い知った。

でも、彼女が、あなたがいてくれてよかった、たすかったよ、って毎回言ってくれて、無力な私をなんだか許してもらったような、そんな安心感をもらっていた。

彼女のおかげで私は自分を肯定できていたのだと思う。

数ヶ月後、彼女は恋人のあとを追って亡くなった。

またね、とラインがきたから、またね、とあいさつをした。なんてきれいな終わらせ方なんだろうと思った。

ばいばいでもさようならでもなく、またね。

死後の世界とか信じてないし、次も人間に限らずいきものになるなんて絶対に嫌だけど、それでも、私もまたねと言って終わりたい。

またね。

涼しくなってきたので数ヶ月ぶりに窓を開けている。

窓を開けると、いろいろな音がきこえてきて落ち着く。こどもの叫び声、車がはしりさる音、風鈴のからからとした鳴き声、風がざわざわしていく音。

虫さえ入って来なければ窓を常に開けていたいのになぁ。

冬はもっと空気がつめたくなる。一番好きな季節。たのしみだなぁ。

昨晩東京から戻り、今日は昼過ぎまで眠った。

まだからだがだるいが、寝続けてもあまりよくも眠れなさそうな状態。数日後には韓国に行くので、なんとか洗濯機をまわす。

その間、やわらかいものを読みたかったので、福島直哉の詩集を読んでいた。日なたでぼんやりしているような気持ち。穏やかさ。

8年近く追いかけてる人間がいる。

ずっと彼のようになりたくてがむしゃらにやってきた。それでも彼どころか他の人たちのがむしゃらにも及ばなかったけれど。

もうすぐ彼の誕生日だ。連絡はもうしない。

潮時かなと思う。私は彼のようにはなれない。受け入れなければならない。私は私にできる生き延び方を探す必要がある。死なずに、せめてその淵に留まっていたい。

どうかお元気で、あなたのことだからメンタルはやられないと思うけど、からだには気をつけて、と思った。早く彼のことを考えない日がくるといい。

相変わらずまともに食事をとれず睡眠もうまくできずという生活。

おととい友人に手紙を書いた。

燃やすあるいは川などに流すといいと聞いたので今日燃やしに行った。燃やし始めてからずっと泣いた。

火が大きくなって最後までもってられなくて、用意してくれてた水が入ったバケツにたまらず投げ入れてしまった。

それでもなんとか燃え続けてくれて、正直涙でよくわからなかったけど、まあまあ燃え尽きてくれてた気がする。のこりは水に流した。

終わってからもずっと泣き続けてしまって、連れて行ってくれたひとに申し訳なかった。

家に送ってもらってシャワー浴びて少しぼんやりしたらお腹が空いたから買ってきた豚汁のためにお湯を沸かした。

その待ってる間に溜まったコップを洗ってシンクの角だけ掃除した。

ろくにご飯を食べていない状態でそれをやったので豚汁にお湯を入れたタイミングで貧血を起こした。

それでもなんとか豚汁を食べて横たわってを繰り返している。

まだ泣くし明日にはまたつらくなってるかもしれないけど、現時点では前向きではないにしろなんとか生きていきたいと思う。

またしんどくなったら手紙を書きたい、また?っていつもみたいに笑ってくれてたらいいなと思う。今度は推しのブロマイドも嫌がらせで送っちゃお。

暗い

朝目がさめるたびなんとも言えない、絶望感のようなものを感じる。それが嫌で、何もない日は眠り続けてしまう。今日は昼間少し起きて本を読んでからまた4時間くらい眠ってた。このままは嫌だけど、抵抗する気力も失せつつある。

昨日、ある文脈で知人に、大きな喪失感と孤独と疲労を感じるよ、と言われた。私は何を喪失したんだっけ。全部が遠い日の出来事で、記憶がどんどん薄くなる。夜には昼のことを別の日のことだと感じる距離感。時間の感覚がどんどんおかしくなっていく。

最近ずっと眠い。でも眠るのはこわい。もっと勉強も読書もしたいのに身体が、脳が、いうことをきかない。努力不足なんだろうか。焦りまみれになってる。やだな。

昨日の日記

昨日は一日寝ていた。薬の副作用が強く出ていたので何もする気が起きなかった。今日は起床時に調子がよかったのもあり服用していない。今日も昼近くまで寝ていたので一日半くらい寝ていたのだと思う。それだけ眠ると、今度はじっと寝転がっていることができなくなってくる。今日なにをどれくらいできるかはわからないが、動けるときに少しでも動いておかないといけない気がしてしまう。こう考えることが、多分回復を妨げている。

 

 小説を読むと、情緒の針が振り切れる。感情移入の度が過ぎているんだろうか。『凍りのくじら』を数年ぶりに読んでいる。私は理帆子と同じだと思ったあの頃から私は何か変わったんだろうか。変われたのだろうか。最初に読んだのがいつかも覚えていないけど。

 藤子・F・不二雄先生は、自分にとってのSFは「すこし・ふしぎ」だと言った。らしい。それを引き、主人公は人の個性を「すこし・なんとか」に落とし込む。そんな理帆子は、「すこし・不在」。理帆子と同じでなくともかなり近いと自分のことを見ている私も「すこし・不在」だと思うが、同じというのもなんかつまらないと思い、自分だったらそれが何になるのかたまにぼんやり考える。

 少し前から思っているのは、「すこし・不確か」。どうだろう。あてはまっているだろうか。人は他者との関わりによって輪郭を得る(もちろん、中身も)。自分ひとりでは生きていけない、他者がいることで自分ができる。これらは多くの先人たちが示してきたことだろう。いまの私は、ほとんどを寝て過ごし、人との関わりも薄い(かろうじてSNSでつながっている)。ひとりで布団でぼんやりしていると、世界との境目があいまいになっていく感じがする。私の線が溶けていく。そんなとき、このまま溶けていくのも悪くないと思う。寂しさを超える瞬間。他者に認識されず、自分でも意識がぼんやりしてくる、あいまいな私。だから、すこし不確か。

どんな小説でも、読み終わると心に穴があく。終わってしまったという喪失感。取り残されてしまったという感情。それらの吐き出し方を私はまだ知らない。小説は終わらせることができるが、私たちは生を終わらせられない。自分で自分の生を終わらせることができるのは、一部の才能のあるひとだけだ。私はどうやって自分の生に幕を降ろしたいのだろうか。それはどうやったらかなえられるのだろうか。

 

 戸籍抄本が無事届いたので、明日はパスポートの申請に行く。はじめての海外は韓国の予定。やっともっと遠いどこかへ行けることがうれしいし、不安でもある。だからこそ早く行ってみたい、外をそこまでこわがる必要がないことを身をもって知りたい。