自分の声を聞きすぎる


煙草を吸うと、頭の中がすうっとして、血の気が全部引いて行く。

その血のゆくえをぼんやり考え続けているとそのまま意識を失いそうになる。

貧血で、酸欠で、とわかっていても、意識をする/しないでからだが変わるみたいだ。


精神はどうだろうか。私は精神が落ち込んでいるとき、それを追いかけてむしろ落ち込みが深くなったっけ。覚えていないや。


気持ちが深く沈み込んでいるときは、どちらかというと頭もぼんやりしているから、追いかけてももやの中を走っているようなそんな感覚だった気がする。そのもやが晴れた状態だったら客観視できているということなんだろうか。


掴めていないとはいえ、精神に限ってはこれまでのほとんどを自分の声ばかり聞いて過ごしてきた気がする。そうすると、次何をしようかとか、今日は何をして過ごそうかとか、計画できないのにきゅるきゅる頭がまわってしまう。


そのくせ、からだの自分の声は煙草とか薬を通してはじめて知ることができる。じぶんのからだなのに、何かを通さないとわからないなんて、と書きながら笑ってしまった。


いつも通り仕事の日。

低気圧にやられてぼんやりや苛々などしていて、そんな中でふと開いた手帳には友人の命日とメモしてあった。


最近、花を部屋に飾ることを、お社に手を合わせることを怠ってしまっていたから、きょうは久々に花を買って帰ろうと思った。思っていたのに、図書館で本を読んでるうちに忘れてしまって、気付いたのは家に帰ってからだった。寂しい。

ひさしぶり。

文章を書こうと思っても書くことが浮かばない、もどかしい日々を過ごしている。


この2ヶ月で恋人ができ、生活が一気に変わった。


あんなに以前すきだった人を忘れたくないと思っていたのに、いまは別の人と同棲している。

以前すきだった人のことは、もう顔を思い出すこともラインのやりとりも体を重ねたことも思い出すことはない。

過去のわたしは泣いて泣いて自分を殺しにかかるだろう。でもそのわたしがもういなくなってしまった。ごめんね、わたし。


いま、恋人は横ですやすや眠っている。

私が死ぬと生きていられないと言ってくれるひと。

いまわたしが一番大事にしたいひと。

付き合いたてだから、とか、そういうひとたちに限ってはやく別れるよね、とか、言われるけれども、それでも、彼がわたしを選んでくれる限り、このひとと一緒にいようと疲労と眠気でぐにゃぐにゃのあたまで強くおもう。

どうか穏やかな眠りがふりつづけますように。

バンドのライブを見に、そして高校の友人と会うために昨日今日と東京にいる。彼女と東京の街を並んで歩いているとき、私はすごく幸福だった。思い出すと泣きそうになる。長い年月をかけて仲良くなったひとは、友人の少ない私にとって本当に大事にしたい存在だと思う。


知らない街で生活をすると、自分の住む街では得られない安らぎを得ることができる。

朝、なんだか無性に本を読みたくなって、勉強がしたくなって、おおきな本屋さんに駆け込んでいた。それをすぐ夢中になって読んでいる。誰も私を知らない。よそ者の自分。心が穏やかで、だけどもぱりっとした、不思議な気分になる。人間に囚われている自分がいないことはなんて幸福なのだろう。


いちど、すべてから距離を置いてみたい。そしてもっと本を読み、勉強をする時間を持ちたい。人間に寄りかからずに生活をしたい。


気分転換のために、体勢を立て直すために、定期的に遠くに出かけることをしようと思う。

髪を染め前髪を切った。視界がひらけて、なんとなく今夜は悪い夢をみないような気がしている。

 

大好きで、憧れで、尊敬してやまない友人がいる。彼女を発見したときからずっと。

でも、私はそんな彼女に甘えすぎて、ちょうどよい距離を壊してしまった。

「いつまで彼女のケアをすればいいんだろう」「あなたは一人では立てない・立つ気がないのだと思う」と言われ、自分の甘えが恥ずかしく情けなくなり、そしてこのままだとまだまだ迷惑をかけ続けてしまうと思い、友人関係でこのようなことをする・言うのは少しおかしいかもしれないのだけど、私は彼女と別れることにした。

 

情緒不安定も落ち着いてきて、そこそこまっとうな生活に戻りかけていたある日、ふと被写体になりたいと思った。写真を撮ってもらうなら彼女がいいと思い、ひと月ぶりに連絡した。ありがたいことに了承の返事が来て、それで安心したのか、あれ以来見られなかった彼女のTwitterを久々にみることができた。

 

彼女は、私が連絡を断ったのと同じくらいの時期に、ある作品を発表していた。

そのテキストを読んで、すぐに私のことだとわかった。私がひとりで、彼女からも自分からも逃げてうずくまっているときにも、彼女は走り続けていて、そしてそこに私がいたことがどうしようもなくうれしかった。

 私は相変わらず弱くて、甘えたで、すぐ逃げ出してしまうけど、前に彼女がくれたことばたちや、この作品を思い出して、少しずつでも変わっていきたい。(勿論いま支えてくれるひとたちやこれまでいろんな人からもらってきた言葉たちのためにも。)

 

あるとき、何かで読んだんだけど、と、何度でも泣く・弱いままでいることも才覚、と彼女は言った。それを久々に思い出して、私はようやく自分の指針を決められた気がする。

どうか弱さを抱えたつよさを持てるように。明日からも自分と手を取り合って生きていく。

眠れなくて、ひたすら文字を打ち込んでいる。あしたも仕事なのに、寝なきゃつらいのはわたしなのに。わたしはわたしに優しくないね。優しい人間になりたいと思うのに、その対象にわたしは入っていない。入ることができないのかもしれない、


日々を過ごすことは難しくて、苦しくて、なんでこんなふうになってしまったんだろうと思うけれども、なってしまったじゃなくてずっとそうだったんだな。それでも死ぬ勇気のないわたしは、泣いて這いつくばって消えたいと泣き叫びながら生きるんだ。おやすみ。

京都に来て3回目の春がきた。でも、最初の頃がどんなだったかは思い出せない。


ふと気がつくと、わたしはとても記憶が薄い人間になっていた。

何度も同じ話を繰り返してしまうし、記憶が定着しない。自分が以前言った言葉を忘れてしまう。なんて責任感がないんだろう。感情の持続にはエネルギーが不可欠であることを思い知る。


たのしかったこと、つらかったこと、かなしかったこと、しあわせだったこと。感情が動いたこと。

どれも大事にとっておいて何度も確かめたいのに忘れてしまって、まるで初めて出会ったかのように再会する。一度でも、確かに感じたはずなのに。それはポジティブである一方で、とてもさみしいことだ。


わたしは何を忘れているんだろう。